昔、友人が「最近の子供は『何でもいいよ』と言うと何もできない」と言っていたことがある。
具体的には「こちらが選択肢を与えれば最適なものを選べる。しかし、選択肢を与えないと何もできなくなる」のだそうだ。
これを読んでいるあなたは、どう考えるだろうか?
当時、筆者はまだ学生だったが学習塾の講師のアルバイトをしていた。相手は中学生である。
自身の経験からも、確かにそういう子供が多くなっているように思う。
これについてはきちんとした調査はしていないので結論を出すべきではないが、とりあえずこのまま話を進める。
それから友人は「選択肢がないと何もできない」ことについて最近のコンピュータゲーム、とくにロールプレイングゲームが
原因ではないかと言っていた。
ご存知かもしれないがロールプレイングゲームとは遊ぶ人がゲーム中の登場人物を操作することによって、そのゲームの世界
を楽しむものである。
しかしコンピュータゲームであるゆえ、例えば誰かから質問された場合「はい」か「いいえ」しか答えられないなど、登場人物が
できることは非常に限られている。
これはゲームのストーリー上、あるいはプログラム上の問題だから仕方のないことかもしれないが、場合によっては自分は話し合い
をしたいのに「たたかう」か「にげる」しか選択できないこともあるのだ。
ではこの場合どうするのか? 「たたかう」か「にげる」のどちらかを選択するしかないのである。
こういった不自由な選択を繰り返せば、いずれ「自分は何ができる?」と考えるのをやめるのは明白であろう。
その結果、「選択肢を与えないと何もできない」子供になり、そして「自分に何ができるのか考えない」大人になるのでは,
というわけである。
確かに進路相談を受けているとき「自分が何をしたいのか分からない」という子供が年々増えてきたのも頷ける。
そのときは普段の何気ない会話で終わってしまったが、あらためて考えるとこれは大変深刻な問題ではないかと思う。
子供の心の発達は学校だけでできるものではない。確かに学級会や班、係を設けることで、集団や個人としての自分というものを
学べるが、だからといってそれだけでは不十分なように思う。筆者自身、今のような人格の形成には学校内よりも学校外、つまり家庭
や、ひいては友達との遊びによるところが大きい。
つまり筆者は、この「遊び」から生まれた問題は授業ではなく、「遊び」でしか解決できないのではないかと考えている。
そこで本論では自由の利く遊びの一つとして「テーブルトークロールプレイングゲーム(TRPG)」を挙げ教育の観点から
論じようと思う。
TRPGの歴史はコンピュータゲームほどではないが非常に浅い。もっとも筆者はそれほど詳しくないのでTRPGの歴史について
は本論で述べようとは思わない。
本来ロールプレイングゲーム(RPG)といえば本論で取り上げるTRPGのことを指していた。しかしメジャーな遊びには
ならなかった。そのような状況でコンピュータRPG「ドラゴンクエスト(エニックス)」がブームになったため、RPGといえば
コンピュータゲームのジャンルの一種という認識が定着している。
それでは元祖RPGといえるTRPGとはどんなものだろうか?
TRPGをはじめるのに必要なものを列挙すると
である。
まず(i)だがTRPGは一人では遊べない。これは一人でしか遊べないコンピュータRPGとは正反対である。では、なぜ一人
では遊べないかというと、TRPGの参加者はゲームマスター(以下GM)とプレイヤーに分かれる必要があるからだ。
ここでプレイヤーとはTRPGの世界で登場人物の一役を受け持ち、GMとはTRPGの進行、具体的にはプレイヤーがとる
行動に対する結果やその場の状況を伝える役割を担っている。このGMをコンピュータに置き換えたのがコンピュータRPGと
いえる。
一般的にGM一名でプレイヤーは一名から数名で構成される。
(ii)のルールとはTRPGで遊ぶ際のルールのことである。基本的には登場人物ができることを明記しており、またその世界観
などを解説することで参加者に世界観やそこにある文化をイメージしやすくしている。
(iii)のサイコロは一般的な六面体や八面体、十面体など様々な種類のサイコロがある。なお、用意すべきサイコロはルールに
記載されている。このサイコロは何かしらの判定、例えば山登りに挑戦して無事登頂できたか、あるいは失敗(怪我して途中下山
や遭難して死亡! など)したかを判定するのに使う。つまりGMの一存で決めるわけにいかない出来事について使用する。
(iv)は極めて重要といえる。TRPGはコンピュータRPGと違って会話を中心に進行する。そのためコンピュータRPGと
比べると視聴覚表現が非常に乏しい。そのような状況で楽しむためにはGMの話術だけでなくプレイヤー一人一人の想像力や
登場人物になりきるノリが必要である。これはコンピュータRPGと違ってプレイヤーにある程度の技術を要求されるものであるが、
その代わりにコンピュータで表現できないことも表現できるし、感じられないものを感じられるようになる。
(v)はそのときの状況に応じて必要とされる。例えば判定に失敗したとしてもGMの特権で成功したことにしたりする「融通」や
(何が何でもルールに従う必要はないのだ!)、場の雰囲気を盛り上げるためにBGMをかけるなどがこれにあたる。強いて述べる
なら「みんなが楽しめる」ための工夫といえる。
次に、TRPGの流れについて例を挙げながら解説する。
使用するルールに従ってプレイヤーが演じるキャラクターを作成する。基本的には能力値の決定などはサイコロを使用するが
、ルールによっては全く使用しないものもある。
また、作成の際にプレイヤーが自分で演じるキャラクターの細かい設定を考えたり、それを実現するためにGMや他のプレイ
ヤーに相談することもある。登場人物を自由に作れるのもTRPGの特徴といえる。
プレイヤー達が演じるキャラクターが完成すると、実際にゲームをはじめる。
シナリオはGMが事前に考えるのだが(1)で述べたようにどんなキャラクターが登場するのかは事前に確認しないと全くわからない。
また登場人物といえる各キャラクターは各プレイヤーが自分で考えて演じるのでGMの思い通りになる可能性は非常に低い。
そのためGMはプレイヤーの特徴や癖、嗜好などを考慮しつつ、多少シナリオどおりに進まなくても方向修正できるようにする工夫
が必要である。場合によってはアドリブでシナリオを展開させる技術も要求される。
無論プレイヤー達もGMがどういう展開を期待しているのか察知し、さりげなくその方向に話を持っていったりする気配りも必要
である。しかし、むしろGMの意表を突き、参加者全員を唸らせるくらいの展開に持っていく方が良いといえる。
ポイントは「全員が楽しめる」にあるのだ。
シナリオが一段落した、あるいはGMの用意したシナリオの材料が切れた場合、そこでゲーム終了となる。
ゲームが終了したらそこでキャラクターのレベルアップ等の処理を行う。コンピュータRPGの場合、ほぼリアルタイムとも
いえる状況でキャラクターのレベルアップを自動的に行ってくれるがTRPGの場合、煩雑な作業を手作業で行うため最後にまとめて
行うのが普通である。
以上がTRPGの流れである。これをセッションと呼び、このセッションを何回か続けた一つのストーリーをキャンペーンと呼ぶ。 ほとんどの場合はこの形式を取っており、一度作成したキャラクターはよほどのことがない限りキャンペーンを通して最後まで使う。
ここではコンピュータRPGと比較しながらTRPGの特徴を述べる。
最低でもGMとプレイヤー一人の計二人は必要である。しかしプレイヤーが一人だけだと遊んでもつまらないのでプレイヤーは 二人以上にした方が良い。実際、ルールもそれを前提としているものがほとんどである。
ルールブック(箱入りの場合もある、昔に比べてかなり安価になったようだ)とサイコロ、コピー代だけで済む。またルールと
サイコロは一度買ってしまえば買い直す必要はない。
更に参加者同士でお金を出し合えば一人あたり百円以下にすることも可能である。
ルールに従うのも大切だが、そのときの状況に応じて柔軟な対応ができる。参加者全員が納得できればルールそのものを改変し、 自分達で遊びやすくすることも可能である。
普通、ゲームは勝敗を競うものである。しかしTRPGではGMとプレイヤーは対立するものではないので、参加者の間での 勝ち負けの概念は無い。強いて挙げれば全員が楽しめたら勝ち、そうでなければ負けであるといえる。
本章ではこれまでに解説した事柄よりTRPGの見た教育効果について述べる。
自主性が強すぎると独り善がりや我儘になり、協調性が強すぎると依存ばかりになる可能性がある。そのためか自主性と協調性を
相反するものとして扱う場合があるが、実際はどちらも必要なものだと筆者は考えている。
つまり自主性ないし協調性が強すぎるのではなく、協調性あるいは自主性が弱い故に問題が起きるのではないだろうか。
TRPGで遊ぶ場合、各プレイヤーが演じるキャラクターは能力、性格、信条など、それぞれ異なっている。そして、その互いに
「自分とは違う」という部分が重要になっている。
これはルールにもよるが、何でもできるキャラクター数人のグループよりも、それぞれに長けているキャラクターを一人ずつ
集めた数人のグループの方が有利なためである。
実社会もそれぞれの専門家が集まって成り立っていることから、これはごく自然なことといえる。
そのためプレイヤーに求められるのは「互いの長所を引き出しつつ、互いの短所をカバーしあう」ことであり、これを実現するに
は自主性、協調性が共に必要なのである。
基本的にTRPGはゲームとして面白くするために各種判定にランダムの要素としてサイコロを用いる。そのためなかなか思い通り
の展開に進まないこともあるが、その難しさをあの手この手で切り抜けるところにこのゲームの面白さはあるといえる。
しかし、その判定結果がプレイヤーのみならずGMも望まないものである場合、GMが特例として見逃すこともある。本来、ルールは
従うものであるが、そのルールは「楽しむため」に作られたものであるので、このようなことも可能である。
ただし、このような特殊な対応は極力控えないと「楽しめなくなる」こともあるので気をつける必要がある。
またプレイヤーは常にアイディアをひねり出すのでルールだけでは対応しきれないこともある。この場合も参加者で相談してルールを
追加したり、情報を追加、修正することもある。
そのため参加者全員には「みんなで楽しむ」ために自分達で工夫しなければならないという責任感と、場合によってはルールそのもの
を変えるという柔軟性が求められる。
TRPGは全員参加が徹底されているといえる。というのも情報の表現及び伝達は会話のみでしか行えないので、会話が無い
イコール先へ進まないということになってしまう(無口なキャラクターであっても「何も言わないよ」と“発言”しないと
周囲は理解できない)。そのため、もしGMの説明がよく分からなければプレイヤーはそのことを訴えるし、逆にGMも
プレイヤーがこれから取る行動について質問する場合もある。
このように何をするにも会話が必要になり、また相手に自分の意思を正確に伝える技能が要求される。
以上がTRPGという遊びから得られるであろう教育効果である。
本論では青少年の心の教育法の一つである「遊び」の一つとしてTRPGを挙げた。またこのTRPGで遊ぶことを通して 最近の青少年の心にとりわけ必要なもの、
が育つ可能性があることを示した。
最後に筆者は次のことを訴えたい。
教育とは学校だけで行えるものではない。
家族や塾だけで補えるものでもない。
勉強だけが教育ではない。
教育はその子供に関わる全てで行うものである。
全ての人間には勉強も大切だが遊びも大切なのだ。
一応「先生」と呼ばれたりするので、この場で「遊び」を真面目に論じさせていただきました(誰が何と言おうと本人はその つもりです)。
私がTRPGを知ったのは高校生の頃でした(教えてくれたのは近所の友人です)。それから数年間、彼の粘り強い対話を重ね、 大学院二年の冬に初めて遊びました。では何で数年間避けつづけたのか…。
恥ずかしかったからです。
しかし、本論で述べたようにTRPGは非常に価値的な遊びです。真剣に考えた結果、
恥ずかしいと思っている自分が恥ずかしくなりました。
その友人に感謝感謝です.っていうかよくもまあ私の友人でいてくれたものです.普通は離れるぞ.
それはともかく,そのときからの積み重ねがこの作品となりました。
いかがでしたでしょうか。
ところでこの作品は…
もっと深く掘り下げれば卒論のテーマにもなるのでは?
な~んて思いませんか?
誰か挑戦してみませんか?
面白いと思いますよ。
書いた本人が言うのだから間違いない!
でも私は担当できません。
最後まで読んでいただき有難うございました。